美しい日本の伝統、飴細工が辿った歴史

 

ハイレベルな伝統工芸「飴細工」


白く練り上げた飴を切ったり伸ばしたりして、形を作る「飴細工」。
 
華やかな造形美で人々を楽しませてくれる飴細工は、観賞用として制作されることも。
 
見て楽しい飴細工は、現在大道芸として大人気。
 
皆さんも、地域のお祭りや路上などで、飴細工を披露し販売している職人を見かけたことがあるのでは?
 
日本の飴細工は美しく精巧なので、海外でも芸術作品として高い評価を受けています。
 
そんな飴細工が日本や世界でどのような歴史を辿ってきたのか…
 
美しい飴細工の世界を覗いてみましょう。

日本の飴細工の歴史


日本の飴細工の歴史は、今から1200年以上も前に遡ります。
 
当時の中国から来た職人が、現在の京都にて飴細工を売り始めたことが由来で、その技術は瞬く間に広まっていきました。
 
延暦15年(796年)に京都の東寺を建立した際に飴細工が作られ、お供え物として捧げられたという逸話も。
 
砂糖が貴重だった時代、砂糖のかたまりとも言える飴細工は、かなりの高級品だったのです。
 
しかし、江戸時代になると砂糖を手に入れやすくなり、飴細工作りも活発になっていきました。

江戸時代に発展した飴細工


江戸時代になると、サトウキビから砂糖の生成がされ、和菓子の文化が最盛期を迎えます。
 
もちろん飴細工もその一つ。
 
江戸で売られていた飴細工は、丸めた水飴を葦(あし)の先端につけ、息を吹いて中空の円形にしたものでした。
 
大阪や京都など上方では、息を吹く前の「吹かけ」の状態で細工が施されていたのだとか。
 
現代では衛生上、息を吹いて中を空洞にする手法は用いられておらず、この「吹かけ」が主流です。
 
16世紀になると、南蛮から伝えられた有平糖作り(砂糖と水あめを煮詰めて練った飴)が盛んになり、飴細工文化の大きな転機となりました。

工夫を凝らした飴細工売り


江戸時代、鳥をモチーフとしたものが多かったので、「飴の鳥」と呼ばれていた飴細工。
 
飴細工が誕生するよりも前から、唐人飴売り(異国風のパフォーマンスで飴を売る人)や、千歳飴などがありましたが、そちらには細工が施されていませんでした。
 
飴細工職人もほかの職人と競うように、客を集めるための口上を述べたり、楽器を鳴らしたりして売っていました。
 
当時の川柳や人形浄瑠璃などの作品の中にも、飴細工職人が描かれる場面が多く見られます。
 
人形浄瑠璃の代表的な演目の一つには、「菅原伝授手習鑑」には「サアサア子供衆、買うたり買うたり。飴の鳥じゃ飴の鳥」という口上も。
 
江戸時代に飴細工を売るためには、人を引き込む話術やパフォーマンスも必要だったのですね。

想像以上に大変な飴作り


昔の飴職人は、一日に36L(一斗缶二つ)もの水飴を売ることができるようになって、初めて一人前と言われていました。
 
その作業を続けるのが難しくなっていた年配の職人が、大きな飴に細工を施すことを思いつくのです。
 
けれども、煮詰めたばかりの熱い飴を素手で造形するのですから、常にやけどの危険と隣り合わせ。
 
当時の飴細工職人は、手がボロボロになってしまうことも少なくなかったとか…。
 
飴細工が辿ってきた歴史の背景には、職人の知恵と苦労があったのですね。

西洋の飴細工の歴史


日本の飴細工は、砂糖とともに始まりました。
 
そんな飴細工が、世界のどの国で生まれたものなのか、実はまだはっきりとは分かっていません。
 
しかし、飴を使って細工を施す文化は、中国や韓国、タイ、そしてヨーロッパなど、世界各国でも古くから存在していました。
 
特にヨーロッパは古代より、植物や果物でテーブルを飾ったり、パンに彫刻を施したりと、食に対するこだわりが強かったのです。
 
19世紀のフランスでは、飴やパンなどの菓子で建築物を再現するように。
 
ピエス・モンテと呼ばれるその工芸菓子の技術は、一流パティシエの登竜門として世界的にコンクールが開催されるほど広がりを見せていきます。
 
チョコレート細工と並んでピエス・モンテの主流となっているのは、もちろん飴細工。

時代とともに変わっていく飴細工


昭和の時代までは、縁日や路上で飴細工を作る職人の姿も多くありました。
 
しかし、今では飴細工職人の数が減っていき、日本全国で100人にも満たないとも。
 
そんな飴細工は現在、東京都内や京都など、日本を代表する地域を中心に販売されています。
 
中でも東京スカイツリータウン・ソラマチにある「浅草 飴細工 アメシン」では、間近で実演販売を見ることができますよ。
 
貴重な飴細工作り、機会があればぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
 
江戸時代から伝わる美しい飴細工を、しっかりと守っていきたいものです。